日々の生活

「期待」と「信頼」

yuchou

わたしがこの数か月、秦野で自然に触れ、自然栽培食品メインの生活を送ってきて色々と考えたころがあります。そのうちの一つが、「期待」と「信頼」に関するあれこれです。

期待しない、改めて

さて、わたしは基本的に期待をしない方だと思っています。周囲は勿論のこと、自分に対しても。

周囲に対する期待について、自分が思う「期待」は、色々ありますが、大きく分けて二つあると思っていまして、一つが「〇〇してくれるだろう」という期待、そしてもう一つは「〇〇はしないだろう」という期待です。

前者の期待は分かりやすいかなと思います。自分はこれだけのことをした、この人はこういう人だから、こう動いてくれる、こうあってくれる、というロジック。個人的には後述しますが、努力は報われる、というのもある意味ではこれの亜種ではないかなと最近は考えています。

で、なぜわたしがこういう考えを持たないのかと言いますと、自分の行為や認識により他存在や自分のこれからをコントロールしたいという欲求の表れだから、即ち支配につながる側面があると考えるからです。

この願望は、多かれ少なかれた存在や物事を自分に都合よくとらえる側面があります。全部を俯瞰的に捉えた上での期待、というのは少なくともわたしには考え難いものです。何かしらのその期待に都合悪い要素は排除される、即ちないものとして扱われる。

とはいえ、物事ってそう単純なものでもないんじゃない?と思うのです。前も科学は自分にとっては物事の一側面を可視化したもの以上のものではないと思っているということを発しましたが、結局わたし達が認知している部分ってそれに過ぎなくて、すべてを見透かせるなんて傲慢もいいところでしょうと思うのです。だからその排除した部分やないもの扱いしている要素だって存在するならどうしようが存在するものだし、そもそも認識の埒外にあるものの存在可能性だって多かれ少なかれある。そしてそれらが、期待という名の都合よい願望とは全く別方向の結果を導くことの方が多いと思うのです。だって個人的にわれわれ一人一人がそれぞれ認知している部分や判断材料として用いている物よりも排除、ないもの扱い、そもそも認識していないものの方がはるかに多いと思うから。

だから、期待通りに事が運ぶのはむしろ少ないと思うし、そもそも期待自体がわたしの克服すべき支配性や排除性をはらむと考えている以上、しないに越したことはないんじゃないかな、って思った次第です。

そしてこれは「〇〇しないだろう」という期待も同じこと。ていうかこれ自体「〇〇してくれるだろう」という期待の裏返しみたいなものなので、ロジック自体は同じと思っています。代表的なものが「自分は干渉しないんだからそっちも干渉しないだろう」という期待。自分はこれを少なからずしていたなとここ最近改めて実感しました。自分は押しのけたりぶつかったりしないから他の乗客も自分を押しのけたりぶつかったりしないだろう、みたいな。んなことありません。急ぐ客は平気で他人を押しのけるしぶつかって言いがかりをつけてきます。自分はそもそも何も言わないから周りも不愉快なことは言わないだろうとか。ないです。平気でマウント取る人は摂ってくるし日常でも他存在を無視したような言動はざらに聞こえてきます。

勿論そんな人ばかりではないです。しかしそういう人だっているのだから、〇〇しないだろうという期待もまた、それらの存在を無視したものであり、その結果自分が嫌な思いをしては世話ありません。いやまあ勿論例示したケースはする方が悪いに決まっていますがね。

自分にも期待しないし、努力は報われない

そしてその「〇〇だろう」という期待は、自分に対してもしません。これはもっとわかりやすくいいかえると「努力は報われない」です。

自分はこれだけ努力をした、だからその努力は自分が望む結果を引き寄せてくれるだろうし、そうならない場合はその努力が足りなかっただけ。これはよく言われますが、はっきり言ってこのロジックをわたしが自分にあてはめると自分をすさまじい勢いで蝕んでいきます。もう毒です。猛毒です。

そもそもその手のロジック自体が、通俗道徳の罠という概念に繋がったり、根性論や精神論に繋がったりといった要素が最近は論じられ、以前ほどは神聖視されなくはなったみたいですね、個人的には良い傾向なのでそれがより進んでいけばなって思います。

話を戻すと、その「努力」「努力した自分」が、「未来の自分」を「今の自分」が「望んだ結果(の自分)」に都合よく形作ることが、未来を支配しているような気がして凄く窮屈に感じてしまうのです。未来の自分にとっては、過去の自分が今の自分を勇気付けるどころか縛り付けている、とも思えてしまう。支配されるのもまっぴらなわたしですが、それは自分自身からも例外ではありません。ましてやその努力が望んだ結果に結びつかなければ、それらが自分にまとわりついてその結果を引き寄せるまで重荷になる、なんてたまったものではありません。

で、その努力と結果ですが、ぶっちゃけ努力すれば都合良い結果を導くということ自体が、自分以外の物事の存在を見落としがちだと考えています。

結果を導くための行動をとるその瞬間に、予期せぬ事態が自分以外の外敵要素によって引き起こされる可能性はいくらでもありますし、自分自身のその時のコンディションだって、いくら万全を期したところで確実に変調をきたさない保証はどこにもありません。身体面でも精神面でも。しかしそのたびに結果が伴わないことを、その予期せぬ事態のせいにする?自分の身体の、メンタルのせいにする?わたしは嫌ですね。そんなこと。誰のせいにもしたくないし、何のせいにもしたくないし、自分のことも責めたくない。それはわたしの目指す植物のような生き方に反する、共生の生き方に反する、支配や収奪からの脱却に反しますからね。

前提はもたず、そういうものか。の前提で

まあ要するに、結果を伴うかどうかは、最終的にはこの地球が決めることだと思っています。でもこの星の生命全てを育む地球を責める?責めて何になる?わたしからしたらそれは最悪の背徳行為なので神がいたとして、その神からやれと言われてもやりませんよ。

じゃあ努力しないの?ていうかそれ努力をしない理由か何か?ということでもないです。何に対しどのような努力をするかは、わたし自身がじっくり考えてするかどうか含めて決めようと思います。

ここで自分が考えるのは、基本的に知識や論理はもったとしても、それらの枠外の物事に対しては前提を持たないようにする、ということです。人や事象が起こす結果については、「そういうものか」と受け止めたい。そしてそういうものかと受け止めたうえで、それをわたしはどう捉えるのか、直観的に何を感じたか。それらを考えたうえで、自分なりにより向き合うのか流すのか。それら含めて決めていきたいなと思っています。

結果のための努力、から自分が信じる努力へ

そして努力についてですが、これはします。死ぬまで。

ただし、自分が貫き通せると覚悟したものだけ。自分が正しいと信じたものを信じた方法で、だけ。それ以外の努力はしない。

それはどういう努力かと言いますと、何か自分が引き寄せたい結果のための努力ではなく、努力をすると考えて、決め、実践を始め、続けていく。その一連の流れ全てにおいてそれらがその先の自分や他存在を再構築し、さらに先へ進めていける努力です。そのついでに結果があればなおいいけどなくてもまあ何とかなるし、仮に結果が悪いものであっても、その一連の流れにおいて既に自分は先へ行っているのだから、そこまで重くとらえなくて済む、そう考えています。

〇〇が欲しいなら××するといいよ!といった案内に対して、それがどれだけ実績や支持の厚い出どころからのものだったとしても、わたしは一考し、本当に行うかどうかは上記のようなものかどうかを照らし合わせたうえで決めようと思います。

信頼とは受け止めて、向き合い続けられるもの

そのうえで、改めてわたしにとっての「信頼」について少し話して、この記事の締めとさせていただきます。

わたしにとって信頼は、〇〇だから、という前提は持たず、その存在そのものを受け止め、向き合い続けていくという覚悟をもてる存在だと考えます。

優しいから、真面目だから、勇敢だから、頭いいからなどは全て前提です。でも人間ってそういう面だけではないと思うし、そもそもそういう前提にあてはめると、それ以外の面を見せづらくなり、多かれ少なかれその人を支配することに繋がります。信頼という絆、もとい結びつきがあればその結びが逆にその人を縛ることになる。それはわたしの望む信頼関係ではありません。

そして今知りうる前提がすべてではないのは、人間に限った話ではありません。あらゆる存在は刻々と変わっていく面が多かれ少なかれありますし、そもそも知りえない部分だって数えきれないほどあるというのは前述した通り。その変化や未知の部分は今までの前提を覆すことだってある。その時にその前提があるから信頼できる、というスタンスだと、その前提が覆った時にしんどいと思うのです。裏切られたと思うのも悲しいしそう思われる方も悲しい。別にどちらが悪いわけでもないのに。

だからわたしは、そもそもとして前提を信頼の根拠にしない。そんな前提がなくてもその存在そのものを受け止めたいと思う、その存在とこの先も末永く向き合っていきたいと思う。その覚悟を信頼と考えて、誰を、何を信頼するかを考えていきたいと思います。

最近読んだ本「BUTTER(柚木麻子:河出文庫)」では、いくら親しくてもいつも気持ちのいい時間を過ごせるわけではなく、時には不愉快になることも相手のことをよく思わなくなることだって、そうさせることだってある。でもその時間や瞬間含めても、それらを共有してこの先も末永く時間を共有していきたいと思える、そんな親友の在り方が描かれていました。多分それは人とのきずなもそうだし、人以外と自分の結びつきにも言えることだと思うし、それはすなわち信頼ではないだろうか。そう考えた次第です。

だからこそ、それをわたしは信頼と呼び、今後その信頼ができる存在を考え、そのための努力を考えて生きて行きたい、そう思った次第です。

ABOUT ME
悠蝶
悠蝶
ヴィーガンコーヒー・スイーツ愛好家
珈琲が好きで、甘いものも好きで、自然も好きで、地球上のありとあらゆる存在が奪わず奪われずに存在できたらいいなと願い、日々を生きる。週に一度植物性食材のお菓子を作るのが趣味で、いつかそのお菓子と自分で焙煎したコーヒーを色々な人に食べてもらい、帰って作れるようにレシピを共有できるような店を立てたいと夢を見ている。
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