山内マリコ「陽子さんはお元気ですか」
最近、悠蝶の中で最も熱い作家の一人、それが山内マリコ。他は柚木麻子やハン・ガン、村田沙耶香とか。書店でとりあえず見つけたら選ぶ、くらいには最近の優先的に読む選択肢に上がる。
そんな山内マリコ作品だけど、普段あまり行かない書店にふらっと立ち寄ってみたら、平置きされている単行本に目が行った。それが表題の「陽子さんはお元気ですか」だ。
正直、ここ最近はまず文庫本から(シンプルに金欠なので)と思っていたのであまり単行本エリアには近寄らないようにしていた(村田沙耶香の世界99も読みたくて仕方ないけど財布と相談してまだ先延ばし中)のだけど、普段寄らない店だからどんな本が平置きしているんだろうと興味本位で立ち入ったのが運命。この本に出会った。しかも「あのこは貴族」を読み終えた直後に。
同じ作家を連続で、ってのは8月はなるべく避けるようにしていて、最近は柚木麻子、村田沙耶香を交互に、ハン・ガンや山内マリ子をそこに追加、って感じで選んでいたのだけど(オール・ノットの直後についでにジェントルメンとかやっていたけど)、平置きされていたらやっぱり興味は湧くもので、とりあえずどんな話なのかを帯や巻末の解説などでネタバレしないように見て、興味を引きそうなら買う、って感じで最近は買うかどうかを決めている。
やっと「日常を生きているヴィーガン」が
そしてこの本、解説はなかったのだけど、参考文献に深沢レナ、生田武志、栗田隆子編著『あなたと考えたい動物たちと社会のこと』(現代書館、2026)の名前があり、「お?」となって、ぱらぱらと見てみた。するとそこに今まで読んできた小説で一度も目にしなかった「ヴィーガン」というワードが。
やっとなの?やっと、ずっといなかったことにされてきた、周縁化されてきた、ヴィーガンという人たちが当然のように存在する作品が世に出たの?いやそれとも単に面白おかしく消費するためだけに、見世物として出したの?とか期待や不安がぐるんぐるん頭をめぐっていて、「でも山内マリコでしょ?見世物みたいにはしないよ」という、今まで読んできた山内マリ子の作品に対する信頼から、本をレジに持って行っていた。
とまあ、前置きが随分長くなったのだけど、それくらい悠蝶の中では画期的なものだった。ヴィーガンがさも当然のように現代社会を描く小説で「同じ日常生活を営む存在」として描かれていたのは。ノンバイナリーにおいてもそういう作品に出会える日を長い目で待つこともできそう。
感想
そして、いざ読んでみた感想を。
帯に書いていた通り、主人公の「陽子さん」が目覚める、もっと言うと声を、言葉を取り戻すお話だったなあって。以前読んだ武田綾乃の「愛されなくても別に」では愛情はすべてを許すための免罪符にはならないっていうことが話の核になっていたけど、こちらはその免罪符扱いされているものにカネについても触れられていたね。
金出せばいい、誰が稼いでいると思ってるんだ、養ってるんだから家のことはちゃんとしろ。直接言われずともそういう「圧」が内外から働いていて、その結果どんな不満や話し合いたいことがあってもそれを発することができなくなって、自責や自己抑圧で自己完結して、結果として「声を奪われた」状態になっていたのが陽子さんだったんじゃないかと。
その声を発せなくなった相手というのが夫だけじゃなくて息子相手にもそうなって、結果として息子が野放図になって何のリスクも痛みも追わずに過ちに対する対価すら母たる陽子さんが払わされて、それに気づかない息子は母をぞんざいに扱って、「本当は優しい子」なんてのも幻想にすぎないっていうツケを息子が大人になってから払わされることになって。
それを気づかせてくれるのが、「自分の人生」を生きることに全力を注ぐ息子の恋人(だった)のみやちゃんってのもまた、いいなって。この二人の関係はこういう形の連帯もあるんだなあって悠蝶の窓から新鮮な風が入り込んだような気持になったよ。ラストなんて特に。
そんな陽子さんがみやちゃんとか、以前、いわゆる自己抑圧していた「良妻賢母」だった時代には苦手だって思っていたママ友とのやりとりで「自分の中で押し込めていたものを発してもいいんだ」と思えるようになって、夫と向かい合ってそれをぶつけ合うことで、「結婚し直す」という結論に至った、すなわち陽子さんが「声を取り戻した」という構成が綺麗だったなあ。この夫も現役時代女性の同僚に当時でも許されんだろ(というか別に許されていたわけじゃなくて文字通り言葉を奪われていただけだと悠蝶は思うけど)な言動をしていたことはドン引きしつつも、それまでの陽子さんへのぶっきらぼう(だけど本当は優しい、なんてことは全くない)な言動から納得できた。でもそれをただ断罪!じゃなくて向き合って話して、少しずつ変わろうとしていくことでその夫も生気を取り戻していくのが、その夫が抱えていた痛み(夫は女のせいだと思っていたみたいだけどそれ自体も矛先を逸らしたい権威男の罠で、まんまとそれに絡め取られていたって感じだと悠蝶は思う)を陽子さんも理解することで、それが「結婚し直す」ことに繋がるのが、ああ、山内マリコだ、生きようとする人たちへの賛歌だってなったよ。
それでこの「声を取り戻す」って帰結が、作品にヴィーガンが当然のように出ていたこととも自然に関連していて、それもヴィーガンが添え物や客引きじゃなくて「社会に在る」ことの説得力に繋がったなあって悠蝶は思ったよ。ヴィーガニズムも、当事者は今日も声を奪われているし、そもそもとして人語を介さない対象にならば、って暴力を強いる工業畜産を批判するという面があると悠蝶は考えているから。
この作品には確かにクソな男(それも主人公の身内)が登場する。だけどそういうクソな人物を断罪!とかじゃなくてそうさせる構造に目を向けて、それを漂白せず、だけどしっかりエンタメ小説として昇華する山内マリコの手腕を改めて思い知らされた。文庫出たら多分買う。単行本も大事に保存しよ。多分「あなたを構成する10冊」という問いがあったらこれは入ると思う。
余談
そんな感じで大満足な一冊だったよ。ふと思ったこととして、物言わないから動物搾取を正当化していることと、救いようのない罪人だからでその罪人に非人道的な扱いをすることを正当化していたのは同じなんだけど、自らの痛みを知ること、他者の痛みを知ること、相手を信じること、信じたうえで一人で背負い込むのを辞めて託すことで、その搾取構造から降りることができるって本当にすごいことなんだなって思った。だって現代は、まだ動物搾取から降りられていないもの。
何の話かって?ある作品の話。あれ、おそらく制作サイドは別にそんなこと考えていないと思うんだけど、あの作品のヴィランとヴィランの同胞兼主人公の味方が最後にその連鎖から降りることを選べたのは、ある意味ヴィーガニズムと通ずるものがあるなって勝手に思ったってそれだけのお話。まあまだ自分ではちゃんとプレイできていないから、通してプレイしたらよりそれが強まるかもしれない。早く引っ越してゲームプレイする環境を整えたいな。
